昭和48年05月06日 井上繁雄1年霊祭
親が先立ったり、子供が先立ったり、思うようにならぬが浮世と言うのは、これは有名な、阿波の鳴門で、巡礼お鶴の、お由美の台詞です。お婆ちゃん聞こえますか。あのね親が先立ったりね。子供が先立ったり、思うようにならぬが浮世と。これはねあのあぁた方も、お芝居で知っておる、あの巡礼お鶴のね、あのお芝居のお由美のセリフですよ。本当にあの、世の中て、そんなものですね。
親が先に行くのが本当だけれども、大体順としては。けれどもやはり、それが反対に子供が先に行くと言った様な、ままにならんのがもう浮世だというね。確かにそれです浮世は。けれどもあのそこからね、信心させて頂く者の又はあの御霊の助かりとか、あのいわゆる思うようになるどころか、思うようにならんじゃない、思う以上のおかげになってくるというのが信心ですよね。思うようにならんのが浮世。
けれども信心は、あの思う以上の思いもかけない、夢にも思わなかったようなおかげになってくるです。私はあの今日の御霊様の、神様の前で大変御祈念が長かったでしょうが。あれはね、私が今日は贈り名を頂きたいと思って、神様との問答があっとった。ところがねあのね、御霊様のほうが辞退されたという感じですよ。それはどう言う事かと言うとね、あのどうしてこげなこと言うか、あの牛のねあの牛馬の牛、牛の角のこう内に曲がった、それを頂きますから。
はぁ牛は家のめぐりと仰いますから、めぐりのことだろうか、めぐりのことだろうかと、私は思うたらね。そうではなくてです。あの神様がね止めるという字ですね。止めるね。止めるという字はこう書くでしょう。あの神様も止めておきたい。本人もまた受けたくないち言う。それでねこの止めるという字の、こう字をこちらの所のこう棒の所を、こう消して下さったら、上げると言う事になる。
止めるという字が上げるという字になるね。例えば御霊名を贈るのも、受けるのもしばらく止めて、けどもこれが取れた時に、上げるという訳なんです。これが取れた時に。あのね今朝から、私あの西日本新聞にね、あのもう私は写真だけしか見なかったけども、三つ四つぐらいになる、男の子をお父さんが捨てて、どういう訳やったか知らんけれども。それがもう後悔してね、また名乗り出てから子供とね、その抱き合って泣いておる写真が出ておりましたね。
それは例えば子供を捨てるからには、大変なやはりね事情のあっての事ですよね。そして巡礼お鶴じゃないけれども、もうそれこそどちらにも、事情のあってのことですよね。それがその恨み泣きをしておる訳です。恨み泣きをしておると言うのです、子供がね。それがその父親に、あの名乗って出て来られて、その喜びとそすとそのお父さんば、こう叩いてからそのね。恨み泣きしている。あのねちょうどこの御霊様は、ちょうどそういう感じの一年間だったです。もう御霊様になってから会われた。
会われたばってん、長い間親とも、こうあの会われなかった。これは肉体を持っておるから仕方がない事ね。遠いとこにアメリカと日本とのあったもんですからね。けれどもその御霊になってから、会うことが出来た。その嬉しさと恨み泣きの一年だったという。はっはははね。私はそれから思うてみて、なるほど去年のちょうど一年前のあのね。あの告別式の色々なお祭りがです。何とはなしにそんな感じだったという気が致しますでしょうね。それでねこれからね、その一年例えば経って、今日です。
御霊様がどういう風に、心が開けてきよるかと言うとね。そのうしを目指すち言うのはね。うしと言うのはこれはあの、御霊の贈り名で最高なんです。大人と書いてある。大人(たいじん)と書いてある。これはお徳を受けた先生方に、必ず使えられる。何々大人(うし)の御霊とこう言うておる。例えばそういう、うしを目指すほどしの信心がね。御霊ながらも分かって来た訳です。
例えばほんならおかげを頂く、おかげを頂くおかげを頂きたいという信心からね。本当の信心が頂きたいと言う事になって来てる。だから今日の御霊はもう、生き生きとした御霊です。信心を頂きたいという御霊です。そして自分も助かりたい。そしてほんならばこうやって、もう自由自在の働きの力さえあれば、出来る御霊の世界におるのですからね。そして親孝行もしたい、御霊の働きもしたいと言う、そういう意欲に満ちた御霊です。自分から贈り名を返上してですね。
うしを目指してですね、どう言う事かと思ったね。何々大人(うし)を目指すというか、と言うくらいなね、いわゆる御霊が徳を受けて、そして改めて、お名前は下さい。また神様もそん時に上げようと、こう神様と御霊様と私の三つの関係がですね。そう言う様な感じのお祭りでしたね。これは私達でも同じ事ですけれども、信心を例えば離れはせんでも、ただおかげに終始しておると言う事ではなくてです。
それこそ自分、昨日から頂いておるように、虚無僧が尺八を吹くね、その尺八の音色に、自分自身も聞きとれるというね。聞きとれるほどしの、例えば尺八を吹いて回っておるなら、今度はそれを聞く者も、やはり耳と傾けて聞きとるね。そん為には例えばあの、深い傘をかぶってね、周囲どん、きょろきょろ見とっちゃ出来んち。自分の足元だけ見とけちね。あの人がどうの、この人がどうのと言う様な、例えば、身に着いたときには、自分自身の事がお留守になっておる時。
ちょうど尺八が、深い傘をかぶって、ただ尺八の音色に聞きとれ聞きとれ、修行して回っておるようなね、自分もそれに聞き惚れておる、聞く者もまたそれに聞き惚れるというようなね。そういう信心をこれから目指していくことを、遺族の者もだけれども、御霊もそれを願っておるわけです。今ここで五つの願いと言われておる。その二番目に家庭に不和の無きが元と言う事があるでしょう。だからどうぞ誰でも、家庭の不和である事を願う者はありません。
けれどもちょっとした人間関係の難しさが、色んな様相を呈して、例えばその親でありながら、子でありながら責め合うようなね。傷付け合う様な事になってくるのです。初めから親子喧嘩しようと思うものは、誰もありません。もう親子は夫婦は兄妹は、もう仲ようしていきたいという願いを持ちながら出来ない。それはほんならどう言う事かというと、人を見るからなんです。
虚無僧のように自分自身を見る。自分の足元を見る。そして自分の心が自分で拝めるような心の状態をです、尺八の音色に聞きとれ、聞きとれと言う事じゃないだろうか。もう何と有難いことになってきただろう。私の心のなかにね。有難い尺八の音色にも似たような音色を聞き続けていくことが出来るのが信心。これは信心を目指すと、それが楽しゅうなってくる。尺八の稽古を始めると、始めの間は大した良い音色は出らんけれども、段々、あの尺八寸の竹から、あんな妙音が出てくる様にです。
人間の心もこう言う浅ましいことばっかりと思うておる人間でもです。一度おかげの世界から、信心の世界に入ってくるとですね。その自分の心のなかに、聞きとれる喜びが楽しゅうなってくるのです信心はね。それをほんなら、今日の御霊様は感じておられるという事です。どうぞ一つあのおかげを頂いて、本人はこれはほんなら、何々大人(うし)といったような贈り名を受けるか受けないかは知らんけれども。
それは例えば信心して、力を受けて徳を受けて、そして親のそばに例えば井上の家のそばに、何時もあまかけり、くにかけり、そこに御霊の名を唱えれば、そこに御霊の働きが出来るような、また受けられるような信心がね、私共遺族の上にも、考えられなければいけないと同時に御霊様も、そこに発心されたというのが、今日の一年祭の感じです。私は今までですね言うならば別に、恨みつらみがあった訳じゃないけれどもです、色んな事情で長い間、親と子が別れておったね。
そこには色々な親がそばにおるなら、こうもして貰おうものに、また親がそばにおるなら親も、こうしてもやりたいものにと言う事が、随分あっただろう。そういう一つの何かしがらみのようなものがね、一年際のお祭りに現れておったような感じです。だからこの一年間、一生懸命ですね。いわゆる信心と言う事に心をかけてきた、御霊様が。そしてむしろ贈り名は、しばらく返上するというぐらいな勢いの御霊としてですね、おかげを受けておるという事です。
もう私はそれを頂いてね、本当に信心ちゃ有難いなぁ、この世現世で助かられるだけではなくて、御霊でも例えばあの告別式を境に、金光様の信心の何たるか、天地の大恩の何たるかが、少しは分かってきてです。初めの間はあの嬉し涙やら、恨み涙の様な感じの一年間ではあったけれどもです。あのここからね。本当の安心の御霊としての信心修行を目指しておる訳です。そういう今日はお祭りでしたですね。どうも有難うございました。